学術・研究
公的意味空間論ノート(花田達郎著『公共圏という名の社会空間』第二章)
花田達郎はハーバーマスの『公共圏の構造転換』で扱われた<構造転換>の内容に関して、ここで整理を行っている。
以下は僕が簡単にマインドマップ形式でまとめたもの。
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近代において、国家と社会の分離が明確となったことが公共圏の醸成につながった。
国家権力が押しつける目的達成的合理性と、公衆の側が発揮する了解志向的合理性がせめぎあう社会空間、それが公共圏である。
しかしながら、現在の後期資本主義の世界においては、国家と社会が相互浸透化したことによって、公共圏は脱政治化され機能不全に陥っている。
ハーバーマス
最近ハーバーマスや公共圏論に関する本や論文を読んでいる。
そこで、ウェブにどのような情報があるか簡単に調べてみる。
少しず追加していく予定。
考えてみれば、ネット上でも公共圏を構築する試みが進行中だ。
Wikioediaはネット上での知識の公共圏の継続的な充実を目指す動きで、Creative Commonsは表現の公共圏を構築しようとする動きだろう。
ユルゲン・ハーバーマス フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 純「ハーバーマスにおける芸術と政治」(『京都社会学年報』第5号、1997年)
二つの研究発表を終えて
6月23日 日本大学芸術研究会(第24回 芸術研究会)、25日 芸術メディア研究会(TOKYO NOISE 2006 作品展示と研究発表会)と立て続けに研究発表(とシンポジウムの司会も)があり、無事に終了して今は一息ついているところ。発表後の質疑応答で、いろいろとフィードバックをもらえ有意義な機会になった。今回は、自分の発表から質疑応答が終わるまでの一部始終をICレコーダーに録音していたので、時間をおいて聴き直した時にはっとしたりすることもあるかもしれない。
今回、発表して気がついたことがある。たとえば3部構成の研究発表の素案を作った場合、最後の第3部の終わりに、自分の解釈と意見を交えてまとめる、という構成で良しとすることとが多かった。しかしながら、各部ごとに、1部なら1部で2部なら2部で、自分の解釈と意見を盛り込んでまとめておくことを癖にしておくと、様々な状況に臨機応変に対応できるな、と感じた。
TOKYO NOISE
僕が所属する芸術メディア研究会(http://www.art-society.net)として初のイベントTOKYO NOISE(作品展示と研究発表)を行います。
三田コンポラリーギャラリーにて 6月24日~6月30日の期間に行います。
僕は25日の日曜日に研究発表とシンポジウムの司会をする予定です。
下の画像をクリックすると拡大して詳しい内容をご覧いただけます。
goo research
波多野哲朗先生の講演

第17回 日本大学芸術研究会では映画評論家の波多野哲朗先生に講演をお願いした。波多野先生は1936年3月15日生まれで、本日70歳の誕生日にあたり、芸術学部の映画学科の専任教員としては定年を迎えられた。
講義内容は文化に興味がある僕のような者にも非常に興味深い内容だった。前半はアイデンティティの不統一性や不連続性の問題を先生の生い立ちにからめて説明が為された。福井地震や敗戦を経験。原風景としての焼け野原。ファシズムから民主主義への端境期を生きることで、アイデンティティや自己意識内にある亀裂や不連続性、矛盾を正面からとらえるようになった経緯はある種の必然性を感じずにはいられない内容だった。
ポストコロニアリズム
僕としても、この種の本では滅多に出てこないチェ・ゲバラやガンディーなどの人名が出てくるのは以外だった。また、この本にはラテン・アメリカのポストコロニアルな状況に関する詳細な記述が出てくる。一連のポストコロニアルの関連研究や書籍でほとんど扱われてこなかった地域である。
カルチュラル・スタディーズ: イントロ(3)
カルチュラル・スタディーズのアプローチ
ここまで、カルチュラル・スタディーズの文化政治学としての側面を駆け足で見てきました。さて、これからは議論を一歩先に進めることにしたいと思います。実際に、カルチュラル・スタディーズにおいて、文化や社会を考察する上でどのようなアプローチが有効だと考えられているかについてお話したいと思います。まず、結論から先に言うならば、具体的な文化や社会を通して、イデオロギーの働きというものにいつも関心を寄せています。
イデオロギーとは?
ただイデオロギーと耳にしてピンとこない人たちも少なくないでしょうから、ここで簡単に説明しておきたいと思います。イデオロギーとは、観念形態と訳されますが、簡単に言うと、~イズム、~主義のことです。たとえば、20世紀もしくは冷戦を代表するイデオロギーは資本主義と社会主義(別の言い方をすれば、共産主義)ということになるでしょう。なんらかの主義を掲げるということは、自分の立場を表明することであり、それは当然ながら政治性を帯びてくることになります。ここで例にあげた資本主義と社会主義は、あまりにも考え方や理想が相容れなかったので、地球上の多くの国々を西側と東側、真っ二つに二分するような政治的構造を作り上げてしまった。そういった意味で、対立や力関係の裏側にそういったイデオロギーが一つの原動力として蠢いている場合は決して少なくありません。
大衆音楽を通してアメリカ社会を考える
それでは、具体例を用いて、カルチュラル・スタディーズのアプローチと言いますか、考え方を説明してみたいと思います。なにせ、イズムであり主義であるイデオロギーは私たちが手にとって触れたりつねったりすることはできないので、特定の文化実践や社会実践を通して語ったり分析するしか基本的にはすべがないのです。
まずは大衆音楽を通してアメリカ社会を考えてみたいと思います。たとえば、ラップ。エミネムを皆さんはご存知でしょうか?彼は2000年以降出てきたアメリカの白人ラッパーで、ラップ史上、最も大きなセールスを記録した人物です。彼が主演した半自伝的映画8milesは2003年に日本でも公開されました。エミネム以前から、もちろんラップ・ミュージックは歴史を刻んでいました。しかし、彼のデビュー以降、ラップはアメリカのミュージック・シーンにおいて急速に支持を得、人気を獲得し、メインストリーム音楽の仲間入りを果たしたと言っていいのです。この事実だけなら、エミネムはラップをブレイクさせたという意味で卓越した実力のあるラップ・アーティストであると、話を終えていいでしょう。
しかしながら、歴史を遡ってみると似たような話と言いますか、同じような現象があることに気づくのではないでしょうか。たとえば、ロック、ロックンロール。エルヴィス・プレスリーの名前を聞いたことくらいはあるでしょう。この人も、マイナーだったロックンロールという音楽を一気にメジャーに押し上げました。
さて、ここで皆さんに考えてほしいのは、そもそもラップやロックはどんな人々によって生み出され、発展させられてきたのかということです。それは、言うまでもなく、アメリカの黒人たちですね。彼らが、紡ぎ出したラップやロックなどの音楽を彼ら黒人たちが歌ってもメインストリームの音楽シーンにおいて人気を獲得することはできなかった。しかしながら、エミネムやエルヴィスなどの白人が歌うことによって、それ以前がまるで嘘のようにラップもロックもマイナーなサブカルチャーから、メジャーなメインストリームへと押し上げられる。(間)ここには、ある種の力関係がはたらいているのではないでしょうか。おそらく、僕が言わんとすることは皆さんにはもうわかっていると思います。つまり、ここでは人種というものがアメリカ社会における力関係として機能していると考えることができるわけです。このように、文化やその歴史の中に息づいているイデオロギーをすくい取ることが一つのカルチュラル・スタディーズの実践の仕方です。先ほど述べたようにイデオロギーはイズムであり主義であるわけですが、この分析から、人種(差別)主義、さらに言えば白人優位主義といったアメリカ社会の底流に流れている問題含みのイデオロギーというものを抽出する結果になったわけです。
反日運動
もう一つ、最近頻繁にマスコミなどで騒がれている中国や韓国における反日運動を取り上げてみたいと思います。たとえば、サッカーのワールドカップアジア予選において、中国のサポーターが日本の国歌斉唱時にあからさまなブーイングを行ったり、試合後日本の大使館の車に対して破壊行為を行ったりということがありました。スポーツの国際試合というのは基本的に国対国、国家の代表チーム同士の対戦であり、それを見るものの心には簡単に愛国心の火がつきやすいのも事実でしょう。日本人の多くの人は、普段愛国心なんてあるのかないのかわからない、意識しないという生き方がごく自然なのではないでしょうか。しかしながら、オリンピックの時期になるといきなり「がんばれニッポン!」などとテレビに向かって叫び出す。それはわりあい日常的な風景だと言っていいでしょう。こういったことからスポーツ競技も愛国主義や国家主義といったイデオロギーの影響から常に自由ではないことがわかると思います。
民衆レベルで行われる反日運動とは別に、中国や韓国の政治家たちも神経質になっているかに見える日本の靖国神社参拝問題なども存在します。
これは一つのレベルにおいては、日本が戦争の反省を忘れ、かつてのように軍国主義化することに対する警戒心からなされていると言われています。
また、別の見方をすることもできます。中国や韓国の政治家は自分たちの政治戦略の一環として、靖国問題を利用しているのではないかと。靖国問題に関しては、中国や韓国側に歴史的な経緯として非難される要素はほとんどありません。そういったわけで、中国や韓国の政治家達が日本の首相の行動や姿勢を避難することに何のリスクもありません。
最近になって、この問題を中国や韓国が昨年などと比べると、より頻繁にこの問題を持ちだしてきている印象を私だけでなく皆さんも持っているかもしれません。この件に関しては、まあ僕の個人的な当て推量で申し訳ないのですが、それぞれの政府の苦しい事情があるのではないかと思います。
韓国はしばらく前に盧武鉉(ノムヒョン)大統領の不正資金疑惑などのスキャンダルが持ち上がり、内政というか国政に韓国民の目を向けさせたくない。国内政治で手詰まりになったとき、大衆の関心を日本問題に向ける、いわゆる「反日カード」を切ることは今に始まったことではありません。
一方、中国は経済発展が著しく、一見、国として勢いがあるように見えますが、なかなか大変な時期を迎えていると思います。市場経済を導入して、経済は自由化したものの、政治体制は相変わらず社会主義というか共産体制を維持しようとしている。いわば資本主義と社会主義の共存を目指しているわけですがこれは難しい。特に若い人の共産党、つまり中国政府離れが加速している。それを逆のベクトルに向け、体制の弱体化を止めるために、これは半植民地主義的な動きだととりあえずは言えるかもしれませんが、「反日カード」を切らざる終えなくなっているのではないか。そう僕は当て推量しています。こういった話の中でもさまざまなレベルで複数のイデオロギーがひしめきあっているのがわかると思います。
終わりに
さまざまな個人・民族・国家・人種が調和し、相互に思いやり、尊重しあいながら生活する状況ももちろんあります。しかしながら、ある一つの文化的価値観は他の文化的価値観と両立しないことのほうが多いのも現実です。また、文化はすべて平等なわけではないのです。それぞれの文化集団は規模・力・影響力の上で異なっているのが常ですし、支配的なものもあれば被支配的なものもあるからです。
カルチュラル・スタディーズが提供する文化や社会に対する分析は万能なわけではありませんし、みなさんに政治的な見方ばかりを押しつけるつもりは毛頭ありません。ともかく、ここで僕は社会や文化を眺めたり、分析する上での一つの視点、一つの角度について語ったに過ぎません。しかし、社会や文化における日常の政治力学を意識しながら生活していると、新たな、今まで意識することも見ることもできなかった世界がみなさんの前に拓ける可能性は十分あると言っていいと思います。
カルチュラル・スタディーズ: イントロ(2)
文化社会学 or 文化政治学
こういった形で社会的な事象を広く扱うので、カルチュラル・スタディーズを文化社会学というように表現する人たちもいます。そういった表現もあながち間違いではありません。しかしながらより正しく言うならば、「文化政治学」だというべきでしょう。なぜなら、カルチュラル・スタディーズは広い意味での文化や社会を読み解くさいに、どのような政治性、権力関係がその中に潜んでいるのかということを常に問題意識として持っているからです。
パーソナル・イズ・ポリティカル
皆さんの多くが政治という言葉からは、首脳会談や国家間の軋轢や摩擦に代表される国際関係であるだとか、国会で繰り広げられる与党と野党の攻防戦などが繰り広げられる舞台のようなものを連想されると思います。そういう風に考えると、政治なんて自分とは関係のない世界のことだ、と短絡的に考えがちです。
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しかしながら、「パーソナル・イズ・ポリティカル(Personal is political.)」、個人的なことは政治的である、という表現があります。つまり、社会や集団の中で生活している以上、私たち個人はさまざま政治的な力関係から自由なことなどまずありえないのです。
このような狭い教室においても、それは言うことができるはずです。このサークル、○○○○の長である、■■■君は、この集団の中で一定の権力を行使できる立場にあるでしょうし、その一方で、■■■君の抑圧に涙ながらに耐えているメンバーもいるかもしれません。醜いヒキガエルを腹いせに宅急便で彼の住所に送りつけてやろうか、などと悶々と考えている人さえいるかもしれません。
ともかく、ここで話をしている僕も、みなさんの貴重な時間を奪いつつ話をしているという意味では、ある種の権力を使い、なんらかの力においてみなさんに聞くことを強制していると考えることももちろんできます。また、みなさんは部長の■■■君が僕にこうやって話しをすることを依頼した手前、とりあえずは聞く振りをしなければならないという無意識の抑圧を感じているかもしれません。大学というせまい空間においては、教師は教室においては生徒に対して権力を持ちうるでしょうし、みなさんが就職して会社などで働き始めた後、その組織や経営者にとってみなさんがマイナスのことを行えば、雇用主は権力を行使するでしょうし、あなたは抑圧を受け、場合によっては法的に排除されることさえありえます。
そういった力関係や権力構造は、それぞれの社会的立場・年齢・経済的な貧富・ジェンダー(社会的な性差)・人種・宗教・民族などさまざまな材料によって規定されています。 そういった風に考えていくと、私たちが行うこと、語ること、すべてが、その時々の立場や権力関係からは自由になることなどほとんどあり得ないと言っていいはずです。つまり、「個人的なことは政治的」たりうるわけです。
カルチュラル・スタディーズ: イントロ(1)
勤務先大学の学生サークルから依頼されて勉強会用にカルチュラル・スタディーズに関する話をしてきました。
いろいろな角度から質問をもらい、1時間ほどの話し合いにも参加させてもらって僕も勉強になりました。
その時、僕がした話の内容を以下にエントリーします。
はじめに
文芸学科副手の阿久澤です。何か、サークルで話をしてほしい、それをネタに勉強会をしたいから、というお話が■■■君からありました。そこで、本日はカルチュラル・スタディーズというトピックでお話しさせていただこうと思います。みなさんもカルチュラル・スタディーズという言葉を見たり聞いたりしたことはあるかもしれません。数年前から、都内の大きい書店に行けば、カルチュラル・スタディーズのコーナーを必ず見つけることができるようにもなりました。
カルチュラル・スタディーズは学問研究上のアプローチの一つの方法であり、領域でもあります。そのカバーする領域は、メディアからサブカルチャー、社会制度からポップ・カルチャーに渡るまで非常に多岐にわたっています。
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そういった意味では、卒論やレポートを学校で書いたり、大学の外に出て社会的な表現活動を行っていくうえでも上でも、みなさんにも実際に役に立つ場面がこれからあるかもしれないと思いながら話を聞いていただけるといいかと思います。
文化=社会
カルチュラル・スタディーズを直訳すれば、「文化研究」ということになります。しかし、ここでいう文化とは、芸術作品や文学作品などの実体の与えられた、形をとったモノだけのことを言うのではありません。カルチュラル・スタディーズの関係者は文化を、特定の社会・経済・歴史的状況が生み出した状況やプロセスとしてとらえます。それは、資本や好・不況の波を受ける経済的な生産や消費の関係であったり、虐げられた人々による社会的な運動であったり、ポピュラー・カルチャーにおける一つの状況であったりします。また、社会制度やメディアやメディアが作り出す状況なども文化的な意味実践が行われる場所や空間として考察の対象にしています。そういった意味では、カルチュラル・スタディーズにおいて文化を研究することと社会を研究することの間には区別がないというか、ほとんど同義であると言ってもいいでしょう。
ジャック・デリダ死去
フランスの著名哲学者ジャック・デリダさんが8日深夜から9日未明にかけて、膵臓(すいぞう)がんのためパリの病院で死去した。74歳だった。AFP通信などが伝えた。
1960年代以降、プラトンからニーチェ、ハイデッガーまでの西洋哲学全体を先鋭的に批判・解体し、西洋中心主義を問い直す「脱構築」の思想を展開。テキストを異なる視点から読み替える手法は、世界の思想・文学などの研究に大きな影響を与えた。
近いうちに追悼の意味をこめて、デリダの仕事を振り返る作業をしておこう。デリダが思想界に残した影響はやはり大きい。
万国博覧会の美術
朝食を済ませた後、上野の東京国立博物館の特別展示『万国博覧会の美術』を見に行く。
1873年のウィーン博覧会から20世紀初頭のパリ博覧会までを主にカバーしている。僕の関心は、1893年のシカゴ博覧会に集中しているが、ヨーロッパの万国博の様子も想像以上に楽しく見ることができた。
自然の曲線美を多用したアール・ヌーボー美術には、日本の工芸の影響があったなどということは知識として知っていても、あまりピンとこなかった。しかし、実際のモノの展示を通して見せられると、なるほどそうに違いないと確信をするに至った。
エキゾティシズム
普通に会話していても、論文などにおいてもエキゾティシズムという語彙僕にとって身近なヴォキャブラリーである。とはいえ、その言葉の意味するところについて、あまり深く考えたことがなかった。しかし、最近になりにわかに気になりはじめた。
現在進行形のメディア状況
イラク国民の捕虜の一部が虐待にあっていたことを示す写真や映像が次々と出てきている。これは、イラク占領の局面において大きなターニング・ポイントになりうるだろう。
Amistad関連のメモ
■The head mutineer, Cinque, was from Sierra Leone, a British colony where slavery was outlawed. .
■Spielberg hasn't gotten inside the character of Cinque (Djimon Hounsou) or any of the other mutineers. At times it appears as if Spielberg is trying to suggest how alien the Africans would look to the society in which they found their freedom being decided.
■But there's something a little queasy-making about the shots of Cinque killing his captors -- they look like fearful white fantasies of black rage. Spielberg has to show that Cinque seems alien to the men pressing for his freedom; he's too smart a director to opt for a simple-minded parable of brother.
Clockersに関するメモ
エッセイでSpike LeeのClockers(1995)を扱おうと思っているのでオン・ライン上のレビューをチェックしている。以下はメモ。
■After the first 2 minutes of Clockers, during which a parade of bloody crime scene photos are splashed on the screen, you'll be ready to put down your popcorn.
■Strike is a clocker. No, he doesn't manufacture timepieces, he does something infinitely more illegal, selling crack. (It's a shame people throw their lives away raising money for their crack addiction when they can get it free by watching "NYPD Blue." One of life's better-kept secrets, I guess.).
■ Keitel and John Turturro, who is mostly kept in the background as Keitel's partner, are the token white guys in the movie.
サブカルチャーについて考え始める
バーミンガム大学に提出予定のエッセイとして、Ghettocentric Cinema(この記事を参照)について書こうと思っている。
それに関連して、サブカルチャーについて調べ始めている。なぜなら、Spike LeeのDo the Right Thingなどに代表される黒人映画にダイナミックなエネルギーを注入している要素を総合的に考えるとヒップ・ホップ・ミュージック、ダンス、ドラッグなどに代表されるサブカルチャーに行き着くと考えたからだ。
とはいえ、これまでそれほど問題意識を強く持ってこなかった対象なのでひとまず全体像をつかんでおくことから始めたいと思った。
アメリカ史を扱った映画
歴史をヴィジュアルな物語に置き換えたものは強力に記憶に残るので、後々参照できるようにこのエントリーに少しずつまとめていこうと思う。
1492 (1992)
インディアンの描写がなかなか強烈
アミスタッド (1998)
1840年代、奴隷船「アミスタッド」の中での暴動から米国内における裁判までを扱っている
Boys Don't Cry
主人公のBrandon Teenaは実在した人物。性同一性障害を抱えている。肉体は女性、アイデンティティは男性という組み合わせだ。それ自体は、今やqueer studiesなどの分野でいろいろと議論が重ねられているので目新しくはない。
しかし、彼が生きた舞台はNebraskaのFalls Cityという田舎町。ゲイやレズビアンの文化といおうかコミュニティーは都市では繁栄している。田舎で生まれた同性愛者は都会に行くことで自分を受け入れてくれるコミュニティーを見つけるのが、乱暴に言ってしまえば一般的。
The World's Columbian Exposition
Norm BolotinとChristine LaingによるThe World's Columbian Exposition: The Chicago World's Fair of 1893を読んだ。
写真がふんだんに使ってあり、ヴィジュアルにシカゴ博の一連の流れが把握できる。タイトルが一般的すぎて、手にとってみないとわからないタイプの本なので、大学の図書館で借りて内容を確認できてよかったと思う。
エントリー内のマインド・マップはクリックによって、読むことができる程度まで拡大可能。ただ、ちょっとコツがいるかもしれない。
Ghettocentric Cinema
つまり、ゲットーが周縁的な空間として単純に設定されているのではない。都市の周縁でしかなかったその空間がさまざまな形で中心として熱を帯びているように描かれているのだ。周縁に熱を集中することで都市中心部の文化的な熱を奪い、脱中心化するかのような世界像がそこには提出されている。さて、そこではどんな手法が使われているのだろうか。思いついたことを書き連ねてみる。
英語論文の検索
もし、簡単な調べ方や、いい方法があったら教えてください。
このようなメールをいただいた。いい機会なので、少しずつ思いつくところをこのエントリーに追加・整理していこうと思う。
ロドニー・キング事件
1995年のO.J.シンプソンの方は当時、アメリカにいてリアルタイムで情報を追っていたので印象に強く残っている。
しかし、アメリカ文化史おいて重要な事件だとわかっているものの、ロドニー・キング事件に関して、個人的には印象がかなり薄い。そこで、ネットで簡単に調べたものをメモしておく。(左画像はCNN.comの記事Rodney King case returns to courtに使用されたものを転載させていただきました。)
あとで、きちんと整理・追加する予定。
Barnor Hesse
しかし、Relocating Postcolonialism 所収の"Forgotten Like a Bad Dream:Atalntic Slavery and Ethics of Postcolonial Memory"を読んで、今までにない種類のパワーのある説得力とロジックを兼ね備えた思考を持っている人物のように感じた。論文からいい意味でのショックを受けた感じだ。East London大学の講師らしい。
詳しいことは後で、もう少し調べてみよう。
Benito Cereno
Beyond boundaries:post national narrativesという授業を履修している。久しぶりに文学色が強い内容の授業。ポストコロニアルなどの植民地文学から文字通りグローバリゼーションを含めたポストナショナルな文化テキストにおける言説を対象にしている。
今週の授業のメインテキストはメルヴィルのBenito Cereno。100ページくらいの中編小説。前半は、情景描写ばかりで話がなかなか進まない。また、古い英語が結構混ざっているので文章もちょっと読みにくかった。いくぶんいらいらさせられる。後半になって、話が急に展開して、全体像が一気に見えてくるという感じの小説。簡単にいうと奴隷船における黒人の反乱を描いたもの。今、何とか読み終えたので、これからこのテキストを扱った二本の学術論文を読む。それが今回の授業準備。
ル・モンド・ディプロマティーク
基礎の基礎だけは大学で学んだので、フランス語もドイツ語も辞書を引きながらなら読めないことはない。しかし、辞書なしでは完全にお手上げである。
『ル・モンド・ディプロマティーク』という雑誌名を耳にして面白そうだな、だけどフランス語か……、と思っていたら日本語・電子版というものを発見。
C.L.R. James
明日のPostnational narrative classで扱うC.L.R. Jamesに関してウェブ・クリップ。
C.L.R.ジェイムズ――カリブの父 (浜 邦彦)
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英国カルチュラル・スタディーズの「創設の父」のひとりと言われるE.P.トムソンが,この短いオマージュを捧げるシリル・ライオネル・ロバート・ジェイムズ(Cyril Lionel Robert James, 1901-1989)は,トリニダードが生んだ20世紀のもっともユニークな思想家のひとりだ.イギリスを中心に,アメリカ,カリブを横断する彼の活動と仕事は,呆れるほど多岐にわたる.彼が及ぼした影響はちょっと書ききれない.とにかく,めちゃくちゃ影響を及ぼした.
heterotopia
映画関係の都市論を読んでいて、フーコーが提唱したheterotopiaという用語がどうもピンとこなかったので調べてみた。
簡単に言えば、other+placeという組み合わせの言葉なのだが、以下の文章ではユートピアと対比してわかりやすく説明している。
憎悪と戦争の心理学
『敵の顔―憎悪と戦争の心理学 』 サム・キーン(佐藤 卓己・佐藤 八寿子訳、柏書房、1994)

他者のステレオタイプをめぐる意欲的な論考である。
収録図版も多岐に渡り、そのイメージを一通り眺めるだけでもステレオタイプやプロパガンダのありかたについてさまざまな視野から考えることができる。
こういった他者表象の研究書の中で本書が際だっている点は、著者が心理学的な視点をあちこちに導入している点である(訳者あとがきによれば、著者キーンはかつて大学で心理学を教えていた。また現在『サイコロジー・トゥデイ』という心理学系雑誌の編集にも携わっている)。
グラミー賞、ヒップホップが主流化
「実際昨年は、セールスと質が結びついたヒップホップ系のいいアルバムが多かった」と音楽評論家の岡村詩野さんは言う。「ヒップホップを聞いて育った世代が、ミュージシャンとして活躍し出した。主要部門にこれだけ名前が出るのは、ヒップホップが音楽シーンで主流化したことを示している」
すると、三木道三によるLifetime Respectの英語カヴァー曲だった。かなりテンポが速くアレンジされていたけれど。まさか、日本人のレゲエ・ナンバーが英語圏でカヴァーされているとは知らなかったので驚いた。
以下、だらだらと冗長に雑感を綴る。
教育現場での広告戦略
No Logo(Naomi Klein著,p89-90)によれば、カナダにChannel Oneという若年層を対象としたテレビ・サービスがあるという。この番組とそれが提供するCMを視聴することに同意した学校側は、無料でそのコンテンツ、受像器の提供を受けることができる。Channel Oneのコンテンツは、学習の視聴覚教材を主にフィーチャーしている。
このサービスは地方自治体の教育財源の削減が進む一方で、視聴覚教育などの設備投資が年々重要となってきている学校側のニッチ市場を満たす形になっているのだ。しかし、Channel Oneのコンテンツ受像器に関して、そのヴォリュームやチャンネルをコンテンツ受容者はコントロールすることはできない。授業とはまったく内容的に関係を持たないCM内容も生徒は教材の一部として必然的に享受せざるを得ない状況だ。
ロゴライゼーション
移動中の読書用に、あまり肩が凝らなそうで、ある程度自分の学術的な興味をかき立ててくれそうな本をさがしていた。Naomi KleinのNO LOGOがちょうどいいのではと思いたちキャンパス内の書店で購入。
おそらく、これはLogolization(人間のロゴ化、人間の広告塔化現象とでも訳すべきか?)について分析しているのではないか、という期待がある。
例えば、有名ブランドであることがあまりにも明白な商品を身につけている人々は、彼らの側からすれば高価なブランド・イメージを持った商品によって自分の社会的イメージを高める一つの戦略というか努力なのかもしれない。しかし、企業側からすれば、彼らが自分のブランドの商品を身につけて町をうろついてくれるだけで無料の広告塔として機能してくれている、ということにもなりうる。バブル期はたくさんの人々が明らかに広告塔として町中を闊歩していた時代だった、と僕は感じる。
マニ教的二元論
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日本語でも英文(下記本文の下線部参照)を読んでいても「マニ教的二元論」や「マニ教的二項対立」といった表現は昔からよく文章の中に登場してきていた。そういう宗教があるのだろう、というくらいで今まで深い考えもなく、やり過ごしてきた。ふと思いとどまって「マニ教」で検索エンジンにかけてみるとあっという間に見つかる。確かに、広辞苑など引いても比較的マニ教に関しては詳しく解説されているのだが、フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』にとてもうまくまとめられているのを発見したのでメモ代わりにエントリー。
Media Image& Arts
クラカウアーについて調べていると、『メディア時代の芸術―芸術と日常のはざま―』の著者である吉積 健氏(京都工芸繊維大学教授)のウェブサイトMedia Image& Arts を発見。内容的にはとても充実しているようだ。ただ、ナヴィゲーションが若干複雑なので、時間のある時にでゆっくり探索してみるつもり。
このサイト内のKRACAUER( 1889-1966)に関する記述はこちら。
消費主義とスペクタクル
アメリカにおける消費主義の出現は19世紀後半だと言われている。シカゴ博も、その契機になったイヴェントだと論じる研究者は少なくない。彼らの主張する理由はまちまちだが、それに付け加える形で個人的な仮説を立ててみる。
pleasure of commodity consumption(商品を購入することの快楽)を加速させた大きな要素はスペクタクルではないか。僕は今のところ、スペクタクルをvisual excitement(視覚的な興奮)を提供する光景や風景くらいの意味で使っている。一般的に言って万国博覧会は、建築物・文化的展示品・機会技術品などで会場があふれかえっていたスペースである。会場に足を踏み入れた瞬間、19世紀末後半の万博入場者たちは圧倒されたに違いない。なにせ、見たことも聞いたこともないような国のヒト・モノであふれている初の国際的なメディア・スペースがそこに目に見える形で現れたのだから。万国博覧会の会場そのものがスペクタクルだったはずだ。
無造作にあの研究誌が
今、僕がいるバーミンガム大学といえば、近年、人文系の学問の流れを大きく変えようとしている言われているカルチュラル・スタディーズの発祥地、バーミンガム現代文化研究センター The Birmingham Centre for Contemporary Cultural Studies、いわゆるCCCSで有名だ。日本にいるときから一度は訪ねてみたいと思っていた場所なので、奨学金をいただいて大学院で勉強できていることは幸せである。
スペクタクルという共通項
Film&VisualCultureクラス用に書いていたエッセイ、映画15minutesに関する内容が一通り形になった。
15minutesは巨額な予算が投じられた超大作のハリウッド映画である。社会批判的な内容とメッセージは十分感じられるものの、それをオーディエンスに伝え、考えさせるためのナラティヴは、多用されているスペクタクル(迫力のあるシーン)によって崩壊しているのではないか。もしくは、ハリウッド映画が近年頻繁に作品に盛りこむようになった社会に対する問題意識を思わせるテーマ群は単なるステージングの便利な装置として、映画テクストの生産者側が消費しているだけにすぎないのではないか、ということを問いかける内容。
新カテゴリーThe WCE Project
blogのシステムの中でも、カテゴリーを細かく分けて設定できる機能は、さまざまな内容をアーカイヴ化するさいに便利で特に重宝している。
最近、過去にエントリーした内容を引っ張り出してきて、エッセイを執筆するさいのヒントにしたり材料として使ったりしてみて改めてそう思う。
個人が手軽にデータをシステマティックにアーカイヴ化でき、それを後々検索することが容易な点はblogの大きな魅力の一つだと思う。アーカイヴという名の情報蓄積システムにおいて、過去のデータが再利用しやすい、いつでも参照できる、という要素はとても重要だということを、blogという一つの文化的実践は経験として教えてくれた。
少し意識的に将来役に立ちそうなデータをエントリーしていくことで、ますます心強い個人データベースができるのではないかという期待も大きい。もちろん、バックアップをこまめにとることも忘れてはいけないけれども。
豪の映画関係者FTAに反発
オーストラリアの映画関係者が、米豪自由貿易協定(FTA)交渉で、米国が豪州に映画やテレビなど映像メディアの市場開放を求めていることに対して、「豪州文化が侵害される」と強く反発している。
まず、はじめにFTAは何の頭文字か確認しておくと、Free Trade Agreement。
ともかく、難しい問題だ。こういった市場開放の要求を拒否するのに合理的な理由を見いだすのは難しい。
ところで、この記事で取り上げているオーストラリア映画「ベイブ」は、よく知られているように地味な子豚の奮闘物語である。
しかし、主人公の一人勝ちの競争原理がストーリーの主流を占める典型的なハリウッド映画とは傾向を異にした、共生がテーマになっているという指摘をしている論文を昔読んではっとした記憶がある。そういった独特の価値観がオーストラリア文化に根付いたものであるのなら、失われるのは寂しいことかもしれない。
テロと都市イメージの再構築
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最近の世界情勢において急速にフォーカスされるようになった国際テロリズムという概念。これはある事件を契機にして生まれたと言われている。
それは1886年5月4日のシカゴまで遡る。アナーキスト――その多くはドイツからの移民――による労働条件改善を求める街頭集会を解散させようとした警察隊に爆弾が投げられた。その結果、警官7人が死亡した。その後,スト中の2万人の労働者に警官隊が攻撃.労働者80人以上が死亡.オーガスト・スパイズらアナーキスト7人の指導者が,警官殺しのでっちあげで捕らえられ,うち4人が処刑された。これがいわゆるヘイマーケット事件(Haymarket Massacre)である。
この事件を機に国際テロリズムという概念が発生したという風に言われている。もちろん、この事件は、そのことよりも社会主義者の祭典であるメーデーの起こりとして広く知られている。
chronicle/spectrum
1893年にアメリカで開かれたシカゴ博覧会について調べている。バーミンガムでの研究対象はこれがメイン。日本での博士論文(まだ仕上げてはいない)は、ある対象をめぐる言説の歴史的変化について主に調べていたのだが、100年近い期間を一気に調べ上げたので、手薄なところがあったことを認めざるをえない。
こちらでの修士論文は、その反省に立って対象と時代をぐっと絞りこんだ。シカゴ博はアメリカで開催された万国博の中でもっとも成功した博覧会とみなされている。人種主義的な民族展示の仕方など、かなり問題含みだが、アメリカにおける文化史的なインパクトはかなり大きい。
American Studiesとは何か?
Research Skills&Methodsのクラスで、三つのグループに分かれて、それぞれ違うトピックでディスカッション。僕のグループではアカデミック・ディスコースについて。History of Film and TVのMphilグループはドキュメンタリーを作る上で必要になるインタビュー・スキルについて。もう一つのグループは「American Studiesとは何か?」について。
グループ・ディスカッションの後、クラス全体でそれぞれの議論の内容をレビュー。その中で「American Studiesとは何か?」という内容がもっとも突き詰めにくいトピックだったと思う。
JAP Road?
「ジャップ通り」名称変えて 米テキサス、日系人ら要請 (asahi.com)
米テキサス南東部のジェファーソン郡にある道路「ジャップ通り」(延長約5キロ)は、日本に対する侮蔑(ぶべつ)的な名称だとして、全米日系市民協会(JACL)や米の人権団体などが5日までに、改称を求める申請書簡を米運輸省と住宅都市開発省に提出した。
albumen prints
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写真の歴史関係の資料を読んでいて見慣れない言葉、albumen printsが繰り返し登場した。albumenを英英辞書で調べてみるとalbminと一緒だという。albminは以下のように定義してある。
Albumin is a protein that is found in blood plasma, egg white, and some other substances.
(c) HarperCollins Publishers.
血漿・卵白などに含まれる単純タンパク質のアルブミンということはわかったが(いや、本当のところはアルブミンの特徴や性質など全然わかっていないのだけれど)、それがどうして写真のプリントと関係するのかは、ちょっと、とというよりはむしろ全然イメージできなかったので調べてみた。
都市のヴィジュアル・イメージ
The City of American and European Photographyクラスの最後のクラスのテーマはBirminghamである。来週行われる授業用のリーディング・アサインメントの論文Introduction :The Creative Destruction of Birminghamを読んでいて自分の中で再認識したことがあった。
15minutes
午前中に、授業の関係でSilverlake life: The View From Here(1993)を見た。ゲイのカップルの一人がHIVポジティヴを宣告されてから、実際に死に至るまでの記録をVIDEO DIARYとして残した40時間以上にも及ぶフィルムを90分にまとめた作品。主人公が実際に亡くなった後のベッドに横たわった死体は僕にとっては衝撃的だった。午後の授業で、この映画についてディスカッションした。僕はこの映画の中盤まで多用されたクロース・アップの意味について語ろうと思っていたが話の流れ上、heterosexualな世界に対するメッセージ性や政治性に触れるにとどまった。
夕食を終え、次の授業用のリーディングもわりあい進んだので、リラックスするために映画15 minutesを見る。
Trinh T. Minh-ha
Trinh T. Minh-haの論文Ed. Michael Renov Theorizing Documentary 収録、"The Totalizing Quest of Meaning" を読んだ。
過去にも翻訳されたポストコロニアル関係やカルチュラル・スタディーズ関連の論文を読んでいると思うが、一般的な内容だったと思う。今回読んだ論文はかなり映画のあり方に深く踏み込んだものだった。よくよく調べてみると、彼女は名の知れた映画監督でもあるらしい。
映画と精神分析は同級生
"Psychoanalysis, born at the same moment as cinema ,..."
(精神分析は映画と同時に誕生したわけだが...)
気になったので確認してみる。まず、映画の誕生に関して。Louis LumiereとAugust Lumiere、いわゆるルミエール兄弟が1895年に発明したポータブル・カメラで撮影した作品を同年12月28日にパリのグラン・カフェで上映したのが一般的に映画の誕生とされている。この時に複数の短編映画を上映したが、その中ではLa Ciota(ラ・シオタ駅へ列車が到着する映像を収めたもの)が有名。
サイバーでクールなカタカナ
最近、ポピュラー・カルチャーにおいて日本語のカタカナをよく見かけるようになった。もちろん、これは映画Matrix(1999)とその続編の影響だろう。黒いディスプレイ上を蛍光がかった反転した緑色のカタカナ文字が垂直にディスプレイの底辺に向けて落ちていく。この映画の代表的な舞台装置だ。
また、最近公開されたタランティーノ監督作品KillBill(2003)のイギリス国内のポスターにもカタカナで大きく「キルビル」と書いてある。
この文字が日本語のカタカナだという認識を持っている人は日本人と日本語をわりあい真剣に勉強したことのある人以外にはわからないだろう。
ただ、ポピュラー・カルチャーの生み出すイメージ(=表象)がわれわれの認識に与えるインパクトはかなり大きい。それは、政治的な意味合いを含むこともあれば、ファッションなどのトレンドを形成する役割を果たす場合もある。
New Topographics
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この言葉は1975年にニューヨークのロチェスターで開催された the International Museum of Photographyで展示を行った若手写真家の写真からWilliam Jenkinsが名づけたものである。まず第一の傾向としては、それまで写真の主流となっていた主観的な切り口から客観的な視点への移動がある。さらに重要なのは、人間の日常や産業などとの関連を意識した社会的な風景写真が多く撮影されたことである。芸術的な写真からは遠く離れたが、逆に地理学者や人類学者などが彼らの写真に興味を抱いたようだ。確かに、都市人類学の資料などに彼らの写真ははうってつけかもしれない。
(写真はRobert Adams,Untitled, Denver,1970-74)
Queer Studiesの基礎(歴史編)
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同性愛者の存在が近代になって認知されたのは1869年で、スイス人医師Koruly Maria Benkertが”homosexuality”という用語を初めて使った。しかし、19世紀において、同性愛者はある種の病気としてしか見られていなかった。英語圏でhomosexualityという言葉が広く使用されるようになったのは、1890年代以降だという。同性愛者の人口などの統計にアクセスしたわけではないので、なんとも言えないが、彼らの存在は社会的認知を受けるほど大きなものにはなっていなかったようだ。もしくは、単に存在そのものがheterosexualな体制や制度に脇へ追いやられていただけなのかもしれない。
彼らの存在が、急に大きくなったきっかけは第二次世界大戦だという。この時、兵士や看護婦など、それぞれが同姓だけのバラックやキャンプで生活を強いられることが多く、その中で自分の中の同性愛的な傾向に気づいていった者が多いという。
reappropriation、読みかえ
queerのようにもともとネガティヴな意味合いを持つ単語が、当事者によってポジティヴな意味合いを吹き込まれて、意味が広がったり違う意味を持つようになることはreappropriationと呼ばれている。文字通り訳せば「最適用」ということになるが、僕は個人的には「読みかえ」という風に頭の中で処理している。
たとえば、黒人たちが聖書を読む際、オリジナルの文脈ではもともとblackという形容詞はあまりいいニュアンスを持たされていなかった。しかし、一部の黒人達はそれを「美しい」とか「強い」といったニュアンスをこめながら解釈していき、blackという言葉を「読みかえ」、意味を転倒したり、違った意味合いを持たせたりすることで、そこに自分の新たな居場所を見つけたり、ポジティヴな意味合いを構築していったのである。
KOBENA MERCER
最近、大学院の授業関係でこの人の論文を読んだが、なかなか鋭い意見の持ち主である。かなり有名な黒人文化批評家なのだが、実を言うとバーミンガムに来るまで名前すら聞いたことがなかった。
彼のWelcome to the Jungle: New Positions in Black Cultural Studies所収のReading “Racial Feminism: The Photographs of Robert Mapplethorp” はかなり興味深い論文だ。白人の写真家で好んで黒人の肉体を撮影していたRobert Mapplethorpに関する過去の論文と、MapplethorpがAIDSで死に、それを機に彼がゲイだった事実を知ったことで、大きくセクシュアリティやまなざしの問題に関して大きく視点を修正した論文が並置されている。
彼の研究のキーワードはBlackness, Black Identity, Sexuality, and Representationといったところか。
Postmodernity
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ポストモダンとは何なのか。基本的な概念やバックグランドは理解しているつもりだが、おさらいしてみる。リオタールの『ポストモダンの条件』は基本的文献の一つ。それ以外にもいろいろと議論されているし、その定義自体もいろいろと問題を常にはらんでいる。
近代を支えてきた大きな物語(grand explanations)が崩壊した後の文化・社会・政治的な傾向とでも言えばいいのか。大きな物語とは、理性主義・西洋中心主義・男性中心主義(家父長制)、進歩主義による科学技術に対する盲目的な信頼などである。他にももちろんたくさんある。
理性・科学・西洋、他にもマルクス主義や、さまざまな政治的・社会的権威がさまざまな形で脱中心化され揺らいでいる、そこから滲み出てきた一つの流れという印象を僕は個人的には持っている。
The Harlem Renaissance

ハーレム・ルネッサンス、よく耳にする言葉だが、具体的に把握していなかったので調べてみた。大まかなところとしては、20世紀前半に文学・芸術・音楽・ダンスなどのアフリカン・アメリカンの文化が一気に開花したことを指して言うらしい。当時は"The New Negro Movement"とも呼ばれたが、後にthe Harlem Renaissanceが一般的な呼称として落ち着いた。
写真は当時を代表する人物の一人として知られる作家・詩人のラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)。
Robert Frank
Robert Frankは第二次大戦後、アメリカを代表する写真家の一人である。1924年スイスのチューリッヒ生まれ。1958年に発表されたThe Americansは戦後の写真史における重大な出来事の一つとされている。アメリカを部外者のまなざしからシニカルに、時にアイロニカルにとらえたフランクの写真は当時のアメリカ人にとって大きなショックを与えた。
Robert Frankの写真を現在のわれわれの目からとらえたらそれほど衝撃的とは思えないが、ドキュメンタリー写真史の文脈に彼をおくと当時の彼の写真はかなり異端である。当時のドキュメンタリー写真は(Walker Evansなどの一部の例外をのぞけば)社会変革や政治的な意味合いをこめたものが多かった。しかし、Robert Frankの写真において、社会的な文脈はあまり重要でないように思える。たとえば、僕が写真の入門書として読んでいるとある本によれば「(Robert Frankは)普通の日常の光景がまさに神話になりうる瞬間をとらえた」という風に言及されている。そういう意味合いでは、彼の写真に対する姿勢はドキュメンタリーよりも芸術的趣向が強かったように思う。

しかし、Street Photographyという文脈では彼は街角を様々な形で「記録」しているわけで、やはりドキュメントの部類に分類可能であるし、その意味ではやはり面白い視点をこの分野に注入したことになると思う。ただ、現代的な文脈ではRobert Frankの写真は後の芸術写真家により多くの示唆を与えたのではないか、と僕は勝手に想像している。写真の勉強をし始めたばかりの素人なので。
サイード死去
米コロンビア大学教授(比較文学)で、イスラムやパレスチナ問題でも発言を続けてきたエドワード・サイード氏が25日午前6時30分(日本時間同日午後7時30分)、ニューヨーク市内の病院で死去した。67歳だった。死因は明らかでないが、同氏は長く白血病を患い、この数年は大学に姿を見せることもまれだった。
その思想に共感し、もっとも僕が影響を受けた人間の一人である。著作活動も盛んで、まだまだこれから大きな仕事をうち立てていくと期待していただけに突然の悲報に驚いた。とても残念。
エノラ・ゲイの完全復元作業終了
1995年にスミソニアン論争を巻き起こした時には部分展示であったが、完全復元が終わったようだ。でも、広島に原爆を投下したのと同じ8月にそれを発表するのはどうなのだろう。
前にスミソニアン論争から見るアメリカ人の原爆認識に関するペーパーを書いたことがあったのでフォロー・アップというかメモ的にentryしておきます。
また、今回はblog上でポピュラーな引用形式を初めて使ってみました(波線で囲んだ部分)。
『ヴィジュアル・カルチャー入門』
ジョン・A. ウォーカーほか著『ヴィジュアル・カルチャー入門』(岸 文和ほか訳、晃洋書房、2001)を読んだ。
秋以降、留学予定の大学院のカリキュラムにvisual cultureというモジュールが二つある。必修ではないのだが、気になっていた。そこで購入したのがこの本である。
この本の著者の一人によれば、ここで議論の対象となっているヴィジュアル・カルチャーとは、伝統的な美術史などで対象とされてこなかった芸術・映像文化のことなのだそうだ。
『ドナルド・ダックの世界像』
小野 耕世『ドナルド・ダックの世界像』(中央公論新社,1999)を読んだ。
マンガ評論家の著者が、ドナルド・ダックへの思い入れを素直に語りつつ、そのキャラクター成立の歴史とその後の経過などを追ったもの。
この本で紹介されている内容を少し深読みすれば、第二次大戦中、プロパガンダ映画に積極的に関わることで、ディズニー・キャラクターの表象は、ナショナリズムと結びついて、成典化を果たしたのではないかと考えられる。正統派のミッキー・マウスではなく、ドナルド・ダックをプロパガンダのアジテーターとして起用したのは、考えてみれば当然のことかもしれない。
『動物化するポストモダン』
若手批評家の東浩紀による、現代の日本文化をテーマにしたポストモダン論。この著者の本を読んだのは初めてであったが、読みやすく、論理展開がしっかりしている印象を受けた。ここで検討されているのは、個人的には馴染みのあまりないオタク文化というものだが、それぞれに関して丁寧に説明されているので議論についていくことは難しいことではなかった。ジャン・ボードリヤールが唱えたシュミラークル、つまり作品や商品のオリジナルとコピーとの区別が弱くなり、どちらでもない中間形態がさらなる増殖を示し、新たな段階に入ったということが日本のオタクの文化を分析することで見えてくるというのである。それはツリー型世界から、新たな段階であるデータベース型世界へ移行した、というのが基本的な主張である。
『カルチュラル・スタディーズ入門』
著者は、クイーンズランド大学教授で『カルチュラル・スタディーズ』誌の編集人である。英国でのカルチュラル・スタディーズ(以下CSと略す)の発展(発見)やCSの主要な問題意識が紹介されている。結論に「文化を軽蔑したり、経験を構成する権力関係を見落としたり、自分自身の経験を無視することなく現代文化について考察する方法をカルチュラル・スタディーズは学生に与えたのだった(p326)」とあるが、私自身もそういった学生の中の一人であると認めなければならない。CSを祭り上げるのではなく、それが含む問題点もところどころできちんと指摘している。後半は、メディア・スタディーズにいささか重点を置きすぎている感はあるものの全体としてバランスよくまとまっている入門書だと言っていいだろう。
「複製技術の時代における…」
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品 1936」『複製技術時代の芸術』(編集解説 佐々木基一,1999)収録pp8~49)を読んだ。
20世紀初期のメディア論の代表作とされているベンヤミンの論文。ここでは、有名なアウラという用語が初めて使用されている。ベンヤミンによれば、アウラとは「どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象」 だという。他の言い方をすれば、一つの作品が持つ歴史的証言力、権威、オリジナルの芸術作品が持つアクチュアリティー、それがアウラということになる。この論文でされている主張は、複製技術が発達することになった今、芸術作品に宿っていたアウラは急速に失われている、ということである。
米大学で「白人学」相次ぐ開設
Good Bye Internet .comさんのところで知ったのだが、韓国の 『中央日報』(日本語版) に、タイトルのような記事が紹介されている。実際の記事はこちらを参照。
この記事によれば、「白人学」は英語でWhiteness studyということになるらしい。アメリカ国内白人学講座は約70カ所もあるというから驚きである。個人的にはすごくいい動きだと思っている。マイノリティー側からの一方的な告発、というよりは多面的で双方向的なアプローチがあったほうがいい。この記事で展開されているような白人の自己反省を促すような授業が増えれば、長い時間をかけて権力を持っている白人側の価値観を少しづつ変えていくことができるかもしれない。そんな期待がある。
Cultural Typhoon(Day 2)
Cultural Typhoon(Day 1)
早稲田大学、教育学部棟で行われている第一回「CULTURAL TYPHOON」の一日目。午前中のセッションの途中から参加。「カルチュラル・タイフーン」は、カルチュラル・スタディーズや文化研究に興味を持つ人々のために開かれたイヴェント。分科会ごとの研究発表会が基本だが、大きな会場はシンポジウム的な形式をとっていたり、夜には学会でよくある懇親会ならぬパーティーがある。
CSについて
此経教授の学部生のゼミの一つで、40分くらい時間をいただいて「カルチュラル・スタディーズについて」というトピックで話をさせてもらった。学部一年生のゼミで、カルチュラル・スタディーズという言葉を知らない学生もいるので、CSの基本的なコンセプトの説明をしつつ、興味を少しでも持ってもらうことが目標。サブカルチャー、ポピュラー・カルチャーに詳しい学生が多いということなので具体例を挙げての説明はできるだけその範囲からするよう心がけた。
文化・社会・歴史というキーワードを説明するために、いわゆるエミネム現象を取り上げた。黒人たちがつくったサブカルチャーであるラップを取り入れることで、大成功を手にした白人ラッパーのエミネム。エミネムから入って、歴史的なコンテクストからアメリカ社会を考えるために、ロックンロールにおけるエルヴィス現象との類似点などをとりあげ、その共通したパターンから何が言えるか、という話をした。
また、『マトリックス・リローデッド』が来ているので、その関連として昔書いた『マトリックス』に関する論文を日本語にしたもののコピーを作って学生に配った。一人の学生はその場で読んでくれて「めちゃめちゃ面白いです」といった感想をくれた。
その後、此経教授が司会として学生の質問や意見を吸い上げてくれ、それを基にいくつか話をした。その流れの中で、此経教授が考現学の立場からカルチュラル・スタディーズの現代的な位置づけについていろいろと語ってくれ、興味深かった。カルチュラル・スタディーズ的な問題意識に立った論文や研究内容について発表したことはあっても、カルチュラル・スタディーズそのものについて正面からあまり語ったことはなかったのでなかなか得がたい機会だった。
ビート・ジェネレーションの思い出
ティーチング・アシスタントの新年度初出勤日だった。新任の非常勤講師の先生が多かったので初授業後の感想などをいろいろと聞いた。大学からの帰りのバスの中でもう一人のTAの学生と話していて、彼の同級生にビート・ジェネレーションの作家を研究している人間がいるという話が出た。また、大学の先生方に混じって飲んでいた時に、一人の先生が、僕のまったく知らなかった日本におけるビートニクの流れについてごく簡単に話してくれた。
意志決定者と遂行者の乖離
イラクに対する武力攻撃が開始された。正確には昨日から。最強の軍事力を背にしても、前線にいるアメリカ兵は生物化学兵器の危機に怯えているはずである。
戦争開始の判断を下した人間が、前線に出向いて戦わねばならない、というような(かなり非現実的だけれど)国際ルールを作れば、戦争はかなり減るのではないだろうか。ブッシュだってブレアだって最前線で戦うのは怖いし、嫌なはずだ。戦争の意志決定をする指導者と、前線に出て戦う人々がまったく別だから戦争に対して指導者たちは簡単にゴーサインを出せるのではないだろうか。
テロとの戦い?
アメリカという国は現代の地球や人類にとって、ひどく厄介な存在かもしれない。
今、米英を中心としたイラク攻撃が現実味を日に日に増してきている。アメリカの主張はこうだ。「イラクはテロ支援国家である、大量殺戮兵器や生物兵器も持っている。アルカイーダとのつながりもある。イラク・フセイン政権は文明社会にとって潜在的な脅威である。よってアメリカを中心とした圧倒的な軍事力により、根こそぎ取り去らねばならない」
こういった流れは、もちろん9・11の同時多発テロをきっかけにしている。我が家で話題になったのは、二〇〇〇年の大統領選でアル・ゴアが勝利していたら、まったく違う展開になっていたであろうということである。バタフライ型のマークシートを採用し、有権者にブッシュJr.が優位になるような形で混乱を起こしたフロリダでの灰色の選挙の結果、現大統領が決定した。あの時、私は留学中でアメリカに滞在中であったが、まあ、自分が国籍を持たない国のことなので多少憤りながらも、しかたない、という風に受け止めていた。しかし、今となってみれば、あの時点でゴアという選択肢であったらずいぶん世界情勢も変わっていたかもしれない。

