003研究の最近のブログ記事
最近ハーバーマスや公共圏論に関する本や論文を読んでいる。
そこで、ウェブにどのような情報があるか簡単に調べてみる。
少しず追加していく予定。
考えてみれば、ネット上でも公共圏を構築する試みが進行中だ。
Wikioediaはネット上での知識の公共圏の継続的な充実を目指す動きで、Creative Commonsは表現の公共圏を構築しようとする動きだろう。
ユルゲン・ハーバーマス フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 純「ハーバーマスにおける芸術と政治」(『京都社会学年報』第5号、1997年)
6月23日 日本大学芸術研究会(第24回 芸術研究会)、25日 芸術メディア研究会(TOKYO NOISE 2006 作品展示と研究発表会)と立て続けに研究発表(とシンポジウムの司会も)があり、無事に終了して今は一息ついているところ。発表後の質疑応答で、いろいろとフィードバックをもらえ有意義な機会になった。今回は、自分の発表から質疑応答が終わるまでの一部始終をICレコーダーに録音していたので、時間をおいて聴き直した時にはっとしたりすることもあるかもしれない。
今回、発表して気がついたことがある。たとえば3部構成の研究発表の素案を作った場合、最後の第3部の終わりに、自分の解釈と意見を交えてまとめる、という構成で良しとすることとが多かった。しかしながら、各部ごとに、1部なら1部で2部なら2部で、自分の解釈と意見を盛り込んでまとめておくことを癖にしておくと、様々な状況に臨機応変に対応できるな、と感じた。
僕が所属する芸術メディア研究会(http://www.art-society.net)として初のイベントTOKYO NOISE(作品展示と研究発表)を行います。
三田コンポラリーギャラリーにて 6月24日~6月30日の期間に行います。
僕は25日の日曜日に研究発表とシンポジウムの司会をする予定です。
下の画像をクリックすると拡大して詳しい内容をご覧いただけます。

第17回 日本大学芸術研究会では映画評論家の波多野哲朗先生に講演をお願いした。波多野先生は1936年3月15日生まれで、本日70歳の誕生日にあたり、芸術学部の映画学科の専任教員としては定年を迎えられた。
講義内容は文化に興味がある僕のような者にも非常に興味深い内容だった。前半はアイデンティティの不統一性や不連続性の問題を先生の生い立ちにからめて説明が為された。福井地震や敗戦を経験。原風景としての焼け野原。ファシズムから民主主義への端境期を生きることで、アイデンティティや自己意識内にある亀裂や不連続性、矛盾を正面からとらえるようになった経緯はある種の必然性を感じずにはいられない内容だった。
僕としても、この種の本では滅多に出てこないチェ・ゲバラやガンディーなどの人名が出てくるのは以外だった。また、この本にはラテン・アメリカのポストコロニアルな状況に関する詳細な記述が出てくる。一連のポストコロニアルの関連研究や書籍でほとんど扱われてこなかった地域である。
カルチュラル・スタディーズのアプローチ
ここまで、カルチュラル・スタディーズの文化政治学としての側面を駆け足で見てきました。さて、これからは議論を一歩先に進めることにしたいと思います。実際に、カルチュラル・スタディーズにおいて、文化や社会を考察する上でどのようなアプローチが有効だと考えられているかについてお話したいと思います。まず、結論から先に言うならば、具体的な文化や社会を通して、イデオロギーの働きというものにいつも関心を寄せています。
イデオロギーとは?
ただイデオロギーと耳にしてピンとこない人たちも少なくないでしょうから、ここで簡単に説明しておきたいと思います。イデオロギーとは、観念形態と訳されますが、簡単に言うと、~イズム、~主義のことです。たとえば、20世紀もしくは冷戦を代表するイデオロギーは資本主義と社会主義(別の言い方をすれば、共産主義)ということになるでしょう。なんらかの主義を掲げるということは、自分の立場を表明することであり、それは当然ながら政治性を帯びてくることになります。ここで例にあげた資本主義と社会主義は、あまりにも考え方や理想が相容れなかったので、地球上の多くの国々を西側と東側、真っ二つに二分するような政治的構造を作り上げてしまった。そういった意味で、対立や力関係の裏側にそういったイデオロギーが一つの原動力として蠢いている場合は決して少なくありません。
大衆音楽を通してアメリカ社会を考える
それでは、具体例を用いて、カルチュラル・スタディーズのアプローチと言いますか、考え方を説明してみたいと思います。なにせ、イズムであり主義であるイデオロギーは私たちが手にとって触れたりつねったりすることはできないので、特定の文化実践や社会実践を通して語ったり分析するしか基本的にはすべがないのです。
まずは大衆音楽を通してアメリカ社会を考えてみたいと思います。たとえば、ラップ。エミネムを皆さんはご存知でしょうか?彼は2000年以降出てきたアメリカの白人ラッパーで、ラップ史上、最も大きなセールスを記録した人物です。彼が主演した半自伝的映画8milesは2003年に日本でも公開されました。エミネム以前から、もちろんラップ・ミュージックは歴史を刻んでいました。しかし、彼のデビュー以降、ラップはアメリカのミュージック・シーンにおいて急速に支持を得、人気を獲得し、メインストリーム音楽の仲間入りを果たしたと言っていいのです。この事実だけなら、エミネムはラップをブレイクさせたという意味で卓越した実力のあるラップ・アーティストであると、話を終えていいでしょう。
しかしながら、歴史を遡ってみると似たような話と言いますか、同じような現象があることに気づくのではないでしょうか。たとえば、ロック、ロックンロール。エルヴィス・プレスリーの名前を聞いたことくらいはあるでしょう。この人も、マイナーだったロックンロールという音楽を一気にメジャーに押し上げました。
さて、ここで皆さんに考えてほしいのは、そもそもラップやロックはどんな人々によって生み出され、発展させられてきたのかということです。それは、言うまでもなく、アメリカの黒人たちですね。彼らが、紡ぎ出したラップやロックなどの音楽を彼ら黒人たちが歌ってもメインストリームの音楽シーンにおいて人気を獲得することはできなかった。しかしながら、エミネムやエルヴィスなどの白人が歌うことによって、それ以前がまるで嘘のようにラップもロックもマイナーなサブカルチャーから、メジャーなメインストリームへと押し上げられる。(間)ここには、ある種の力関係がはたらいているのではないでしょうか。おそらく、僕が言わんとすることは皆さんにはもうわかっていると思います。つまり、ここでは人種というものがアメリカ社会における力関係として機能していると考えることができるわけです。このように、文化やその歴史の中に息づいているイデオロギーをすくい取ることが一つのカルチュラル・スタディーズの実践の仕方です。先ほど述べたようにイデオロギーはイズムであり主義であるわけですが、この分析から、人種(差別)主義、さらに言えば白人優位主義といったアメリカ社会の底流に流れている問題含みのイデオロギーというものを抽出する結果になったわけです。
反日運動
もう一つ、最近頻繁にマスコミなどで騒がれている中国や韓国における反日運動を取り上げてみたいと思います。たとえば、サッカーのワールドカップアジア予選において、中国のサポーターが日本の国歌斉唱時にあからさまなブーイングを行ったり、試合後日本の大使館の車に対して破壊行為を行ったりということがありました。スポーツの国際試合というのは基本的に国対国、国家の代表チーム同士の対戦であり、それを見るものの心には簡単に愛国心の火がつきやすいのも事実でしょう。日本人の多くの人は、普段愛国心なんてあるのかないのかわからない、意識しないという生き方がごく自然なのではないでしょうか。しかしながら、オリンピックの時期になるといきなり「がんばれニッポン!」などとテレビに向かって叫び出す。それはわりあい日常的な風景だと言っていいでしょう。こういったことからスポーツ競技も愛国主義や国家主義といったイデオロギーの影響から常に自由ではないことがわかると思います。
民衆レベルで行われる反日運動とは別に、中国や韓国の政治家たちも神経質になっているかに見える日本の靖国神社参拝問題なども存在します。
これは一つのレベルにおいては、日本が戦争の反省を忘れ、かつてのように軍国主義化することに対する警戒心からなされていると言われています。
また、別の見方をすることもできます。中国や韓国の政治家は自分たちの政治戦略の一環として、靖国問題を利用しているのではないかと。靖国問題に関しては、中国や韓国側に歴史的な経緯として非難される要素はほとんどありません。そういったわけで、中国や韓国の政治家達が日本の首相の行動や姿勢を避難することに何のリスクもありません。
最近になって、この問題を中国や韓国が昨年などと比べると、より頻繁にこの問題を持ちだしてきている印象を私だけでなく皆さんも持っているかもしれません。この件に関しては、まあ僕の個人的な当て推量で申し訳ないのですが、それぞれの政府の苦しい事情があるのではないかと思います。
韓国はしばらく前に盧武鉉(ノムヒョン)大統領の不正資金疑惑などのスキャンダルが持ち上がり、内政というか国政に韓国民の目を向けさせたくない。国内政治で手詰まりになったとき、大衆の関心を日本問題に向ける、いわゆる「反日カード」を切ることは今に始まったことではありません。
一方、中国は経済発展が著しく、一見、国として勢いがあるように見えますが、なかなか大変な時期を迎えていると思います。市場経済を導入して、経済は自由化したものの、政治体制は相変わらず社会主義というか共産体制を維持しようとしている。いわば資本主義と社会主義の共存を目指しているわけですがこれは難しい。特に若い人の共産党、つまり中国政府離れが加速している。それを逆のベクトルに向け、体制の弱体化を止めるために、これは半植民地主義的な動きだととりあえずは言えるかもしれませんが、「反日カード」を切らざる終えなくなっているのではないか。そう僕は当て推量しています。こういった話の中でもさまざまなレベルで複数のイデオロギーがひしめきあっているのがわかると思います。
終わりに
さまざまな個人・民族・国家・人種が調和し、相互に思いやり、尊重しあいながら生活する状況ももちろんあります。しかしながら、ある一つの文化的価値観は他の文化的価値観と両立しないことのほうが多いのも現実です。また、文化はすべて平等なわけではないのです。それぞれの文化集団は規模・力・影響力の上で異なっているのが常ですし、支配的なものもあれば被支配的なものもあるからです。
カルチュラル・スタディーズが提供する文化や社会に対する分析は万能なわけではありませんし、みなさんに政治的な見方ばかりを押しつけるつもりは毛頭ありません。ともかく、ここで僕は社会や文化を眺めたり、分析する上での一つの視点、一つの角度について語ったに過ぎません。しかし、社会や文化における日常の政治力学を意識しながら生活していると、新たな、今まで意識することも見ることもできなかった世界がみなさんの前に拓ける可能性は十分あると言っていいと思います。
文化社会学 or 文化政治学
こういった形で社会的な事象を広く扱うので、カルチュラル・スタディーズを文化社会学というように表現する人たちもいます。そういった表現もあながち間違いではありません。しかしながらより正しく言うならば、「文化政治学」だというべきでしょう。なぜなら、カルチュラル・スタディーズは広い意味での文化や社会を読み解くさいに、どのような政治性、権力関係がその中に潜んでいるのかということを常に問題意識として持っているからです。
パーソナル・イズ・ポリティカル
皆さんの多くが政治という言葉からは、首脳会談や国家間の軋轢や摩擦に代表される国際関係であるだとか、国会で繰り広げられる与党と野党の攻防戦などが繰り広げられる舞台のようなものを連想されると思います。そういう風に考えると、政治なんて自分とは関係のない世界のことだ、と短絡的に考えがちです。
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しかしながら、「パーソナル・イズ・ポリティカル(Personal is political.)」、個人的なことは政治的である、という表現があります。つまり、社会や集団の中で生活している以上、私たち個人はさまざま政治的な力関係から自由なことなどまずありえないのです。
このような狭い教室においても、それは言うことができるはずです。このサークル、○○○○の長である、■■■君は、この集団の中で一定の権力を行使できる立場にあるでしょうし、その一方で、■■■君の抑圧に涙ながらに耐えているメンバーもいるかもしれません。醜いヒキガエルを腹いせに宅急便で彼の住所に送りつけてやろうか、などと悶々と考えている人さえいるかもしれません。
ともかく、ここで話をしている僕も、みなさんの貴重な時間を奪いつつ話をしているという意味では、ある種の権力を使い、なんらかの力においてみなさんに聞くことを強制していると考えることももちろんできます。また、みなさんは部長の■■■君が僕にこうやって話しをすることを依頼した手前、とりあえずは聞く振りをしなければならないという無意識の抑圧を感じているかもしれません。大学というせまい空間においては、教師は教室においては生徒に対して権力を持ちうるでしょうし、みなさんが就職して会社などで働き始めた後、その組織や経営者にとってみなさんがマイナスのことを行えば、雇用主は権力を行使するでしょうし、あなたは抑圧を受け、場合によっては法的に排除されることさえありえます。
そういった力関係や権力構造は、それぞれの社会的立場・年齢・経済的な貧富・ジェンダー(社会的な性差)・人種・宗教・民族などさまざまな材料によって規定されています。 そういった風に考えていくと、私たちが行うこと、語ること、すべてが、その時々の立場や権力関係からは自由になることなどほとんどあり得ないと言っていいはずです。つまり、「個人的なことは政治的」たりうるわけです。
勤務先大学の学生サークルから依頼されて勉強会用にカルチュラル・スタディーズに関する話をしてきました。
いろいろな角度から質問をもらい、1時間ほどの話し合いにも参加させてもらって僕も勉強になりました。
その時、僕がした話の内容を以下にエントリーします。
はじめに
文芸学科副手の阿久澤です。何か、サークルで話をしてほしい、それをネタに勉強会をしたいから、というお話が■■■君からありました。そこで、本日はカルチュラル・スタディーズというトピックでお話しさせていただこうと思います。みなさんもカルチュラル・スタディーズという言葉を見たり聞いたりしたことはあるかもしれません。数年前から、都内の大きい書店に行けば、カルチュラル・スタディーズのコーナーを必ず見つけることができるようにもなりました。
カルチュラル・スタディーズは学問研究上のアプローチの一つの方法であり、領域でもあります。そのカバーする領域は、メディアからサブカルチャー、社会制度からポップ・カルチャーに渡るまで非常に多岐にわたっています。
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そういった意味では、卒論やレポートを学校で書いたり、大学の外に出て社会的な表現活動を行っていくうえでも上でも、みなさんにも実際に役に立つ場面がこれからあるかもしれないと思いながら話を聞いていただけるといいかと思います。
文化=社会
カルチュラル・スタディーズを直訳すれば、「文化研究」ということになります。しかし、ここでいう文化とは、芸術作品や文学作品などの実体の与えられた、形をとったモノだけのことを言うのではありません。カルチュラル・スタディーズの関係者は文化を、特定の社会・経済・歴史的状況が生み出した状況やプロセスとしてとらえます。それは、資本や好・不況の波を受ける経済的な生産や消費の関係であったり、虐げられた人々による社会的な運動であったり、ポピュラー・カルチャーにおける一つの状況であったりします。また、社会制度やメディアやメディアが作り出す状況なども文化的な意味実践が行われる場所や空間として考察の対象にしています。そういった意味では、カルチュラル・スタディーズにおいて文化を研究することと社会を研究することの間には区別がないというか、ほとんど同義であると言ってもいいでしょう。
